みなさんご存知「赤毛のアン」(モンゴメリ、村岡花子訳、新潮文庫)。わたしは漠然と、少女向けの児童文学だとイメージしていました。ところが予想外に分厚い文庫本を手にしてみれば、500ページ超の長編。しかも続編を含めシリーズ11作という、堂々たる大作ではありませんか。
1908年の出版以来、世界中で1世紀以上も読み継がれ、2025年の今年はNHK Eテレでアニメ化もされたお化けのような小説です。これに比べるなら、日本だけでも年間どれだけの小説が刊行され、虚しく消えていることか。
国籍や歳月を超えて、乙女心を鷲掴みにする少女なのですね。アンは。
カナダのとある島が舞台です。孤児院から男の子を引き取るはずだったのに、手違いで、やってきたのは赤毛の11歳の女の子でした。彼女がアン・シャーリー。
家の仕事を手伝える男の子を期待していたのは、緑色の切妻屋根の家に暮らす兄妹でした。二人は老境を前にして独身、子育ての経験はありません。そこに女の子が現れたのですから慌てました。
しかしアンは孤児院に送り帰されることなく、家に引き取られます。お喋りなアンの魅力が、周囲の大人たちを虜にし始めるのです。
事あるごとに、アンという女の子の中のなんという夢想の広がり。その結果としての現実生活での失敗とドタバタ。読みながらわたしは唖然としつつ、時に笑い、時に辛辣に眺め、そして思ったのです。
女の子の頭の中はこうなってるの?。少なくとも典型の一つがここにあって、だからこの作品は愛され続けるのだろうか?。だとしたらわたしは、永遠に女性というものを理解できないだろう...と。
退屈な作品だと言っているのではありません。とても面白かった。ただ、アンに共感するのは難しい。つい冷静に「分析」してしまいます。ここまで純粋に、夢想に心を委ねてなんの疑いも入り込まず、堂々と自分を主張できる無垢な自己肯定。それは想定を超えていて、わたしはときにアンという女の子を持て余してしまう。
むしろわたしが共感できたのは、アンを育てながら静かに見守り続ける60歳の田舎男・マシュウでした。大人の女性を前にするとなにも話せないほどに内気。孤児院からきたのが女の子と分かって途方にくれ、しかし真っ先にアンを愛し始めてしまう。
最後は銀行の倒産で妹やアンを養うための預金を失い、心臓の病気で急死します。ああ、かわいそう過ぎる。しかし素朴で裏表なく、神に与えられた生涯を生ききった姿が清々しい。
たぶん、女性はこんな読み方はしないのだろうな。わたしに「赤毛のアン」を語る資格はないのかも。