ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

能登の絵師 震災から1年の大晦日

 あと数時間で、2025年を迎えます。1年前の元旦夕方、能登半島地震が起きました。わたしが暮らす地は能登に近く、震度5強。初めて体験する強い揺れが長く続き、直後に津波警報が出ました。自宅は海岸線から4、5キロ離れていますが、近くを川が流れ、海抜は1メートルほどしかありません。

 外に出ると、ふだん見ることのない海鳥が飛来して、鳴きながら夕空に乱舞。「これはまずい」と、浮き足立ったのを思い出します。

 能登の被害は甚大でした。復興が進まない中、9月には豪雨災害に襲われました。わたしは夏以降2度、能登へ行きました。七尾市では潰れた家、ひび割れた街中の道路がそのままでした。

 

 尾張国で織田信長が生まれた5年後、1539年に遠く離れた能登・七尾で武士の家に男の子が誕生しました。赤ん坊は絵仏師だった長谷川家へ養子に出され、やがて腕のいい後継ぎとして成長しました。絵仏師とは、寺社から依頼を受け、仏画を描く絵師のことです。

 やがて彼は、京で絵師として身を立てる野心を抱き、風光明媚、日本海の海運で栄える能登を出奔します。現代の若者が希望を持って都会へ行くのに比べれば、比較にならない困難と決意があったはずです。

 戦国から桃山時代の歴史の波に翻弄されながら、やがて鮮やかな障壁画で時代の権力者や千利休に重用されました。「長谷川等伯」と名乗り、当時画壇を支配していた狩野派と一人で張り合うまでになります。 

 ところが晩年、腕のいい絵師として成長した息子が急死。悲しみに加え、創始した長谷川派を、狩野派に対抗して存続する道も潰えたのです。そして描いたのは、華やかな色彩を排した水墨の「松林図屏風」六曲一双。国立博物館蔵、国宝。

 

 絵の濃淡が表すのは、空間だけではありません。墨痕鮮やかな松に現在を、淡い墨に昨日そして昨年を、画面の多くを占める空白に千年をそして悠久の時を、絵はわたしに語りかけてきました。

 平面に過ぎない絵が、濃淡で奥行きという3次元を獲得し、さらに時間軸まで滲ませて見る人に迫る。水墨画にとどまらず、これ以上の絵画と出会うことは、そうそうないと思います。

 ...と書きながら、わたしは実物と対面したことがありません。震災前、石川県立七尾美術館を訪ね、最新のデジタル技術による詳細な複製画展示を見ただけです。それでさえ、静かで、そして圧倒的でした。

 能登の復興が進むことを祈りつつ、ブログをお読みいただいているみなさま、今年もありがとうございました。どうかよい年の瀬を。そして健やかな2025年でありますように。