初代iPadが日本で発売されたのは2010年5月です。発売初日、銀座のアップルストアには開店前から長い列ができ、ニュースになりました。
同じ日の午前中、田舎に暮らすわたしの自宅には宅配便でiPadが届きました。アップルの公式サイトで、事前に購入予約していたのです。タブレット端末というものが、日本で初めて世に出た日でした(アメリカでは一足早く発売されていた)。
事前予約までしてiPadを求めたのは、わたしが筋金入りのアップルファンだったことに加え、「これで本を買わなくてもいいのではないか」という希望を抱いたからです。iPadを読書端末にし、新刊本も電子書籍で買えばいい。
当時すでに、狭い部屋は本であふれていました。今後はiPadを書斎にし、そちらに新しい本を蓄積すれば、図書館に匹敵する空間を手に入れたようなもの。仮に部屋の本すべてをデータ化できれば、それも楽々と小さなタブレット端末に入ってしまう。
夢のような考えでした。しかも夢ではなく、物理的に可能なのです。そして...
わたしが買った電子書籍は、宮部みゆきさんの小説など10数冊ばかりでした。ごく短い間に、紙の本に戻ったのです。残念な一方、心には「やっぱりか」という思いがありました。
大手出版社の近年の収支を見れば、電子書籍は売上のそれなりの部分を占めるに至っています。その主役は、漫画・アニメ。言葉より視覚(絵)が表現主体になるジャンルです。
これから、若い世代を中心に小説など活字主役の本も電子本、あるいは読み上げによる音声媒体に移っていく可能性は大ですが、アナログの紙の本はなぜ、まだしぶとく生きているのか。
それは単純に、手にとって重さを感じ、指でページをめくれるからだと思います。かつ、そこに『ある』から。
机上の積読本は、いやでも毎日目に入り、その物理的な存在をアピールしてきます。書架の既読本に目をやると、背表紙がいろいろな記憶と結びついています。これが無表情なタブレット端末の中に閉じ込められたなら、沈黙して気づかれることもないでしょう。ああ、味気ない。
先日、「方丈記」を読んだ折、思い出したのが小林秀雄の「無常といふ事」という小文でした。小林秀雄全集は書架の目に入るところにあるので、収録された第八巻を取り出して再読しました。
もしタブレット端末内にわたしが所有する本がすべてあり、管理していたら、こんな連鎖が生まれて簡単に小林秀雄全集を探し出したか。検索機能は便利でも、人間の頭の中の記憶と物理的な位置が即座に結びつくスピードにはとうてい敵いません。
まあ、スマホがネイティブな世代にとっては、古い評価基準なんでしょうけど。
さて、たいへん長い前置きでした。来週、わたしが暮らす地域の年末恒例、廃品回収の日があります。それまでに、最低でも2、300冊の処分本を紐でくくりたい。そうしなければ、来年のわたしの生存空間が危機に至ります。
積読本どころか、床上収納(=床の山積み)本が足元まで迫り。ところが本の処分というやつ、しんどいんだよなあ。読んだ本は、付き合った人と同じ。人と人はそれぞれの事情があるから別れるけれど、本は全部自分側の事情で切るのだから。