長く生きると、次第に「若さ」をまぶしく、うらやましく思うようになります。もし自分に再び若さが与えられたなら、ああするだろう、こうするだろう...と思い。しかし、それは後出しじゃんけんと同じで、実に身勝手な夢想にすぎません。
仮に若返ったとしても、また歳月を経て行き着いた先にきっと大差はないでしょう。苦い思いを噛み締め、再び「若さ」を求めるだけで。わたしという人間の器はその程度です。
一方、もう「若さ」は真っ平だという思いもあります。夢に振り回され、傷つきやすくて傲慢で、だから人も傷つけ、あれほどしんどい時期は人生1回きりでたくさんだ!ーと、だれかが言えば、わたしは深く頷きます。
こんな愚にもつかないあれこれを考えるのは、時は戻らないという当たり前すぎる摂理の中に生きているから。わたしが生まれる遥か前から時は流れ、死んだ後も、後戻りすることなく流れ続ける。すべていのちは一時の泡沫(うたかた)に過ぎない。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
よく知られた、鴨長明「方丈記」の書き出しです。古典文学の三大随筆の一つとされる名作。ちなみに残る2作は「枕草子」と「徒然草」です。これ、今の教科書に出てくるのかどうか知りませんが、若い人が読めば
「なんだ、悟り切ったつもりのジジイの感慨か」
で、終わりそう。ま、その通り。
しかしですねえ...。そうばっさり切りたくなるけど、切り捨てられない感触が若いころからわたしにあり、歳月をかけて、じわじわ広がる染みのように心の土台を侵食してきました。そしてわたしもジジイになり、半世紀ぶりに再読。
鴨長明は貴族の時代から武士の時代へ移る、歴史の転換期に生きた人。「方丈記」は「建暦二年、弥生のつごもりころ(1212年3月下旬)これをしるす」と結ばれており、脱稿の年月が分かる数少ない古典です。ときに長明58歳。
随筆全体の真髄は、紹介した冒頭の2センテンスに凝縮されています。
冒頭以下は、何十回もの春秋を過ごして体験した世の変転を振り返ります。京の街を焼き尽くす大火災、家を吹き飛ばす台風、地震、疫病、行き倒れた死体が数えきれない飢饉など、記述が生々しい。
現代にしても新型コロナ、大地震、台風、武力衝突が絶えない国際社会など、人の営みはなんら変わっていません。妙に、身近に感じます。
隠棲して都から離れた山中に庵を結んで暮らし、述懐したのがこの随筆。庵の詳細な描写によると、方丈とは1辺約3メートル四方なので、4畳半一部屋程度の小屋。粗末な衣服で肌を隠し、貧しい食事でいのちをつなぐ日々。
夫(それ)、三界はただ心一つなり
世界は、人それぞれの心に映る主観的なものに過ぎない。財産も、邸宅も望まず、一間の庵をわたしは愛することができる。狭い庵であっても
夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし
別の箇所ではまた、「人と交わらなければ、人を傷つける心配もない」と記します。う、個人的に痛いところを突かれた一文。傷つけ、傷つけられた顔が走馬灯の如く脳裏を走りました。
ただ独り山の四季に慰められ、琵琶を奏で...。風雅は確かだけれど、エアコンは無理にしても厠や風呂もないのか、困るし臭くならないか。なんて、つい考えるのは現代の俗にまみれた凡夫のわたしでした。
「方丈記」を書き残した鴨長明。実はなかなか気性のきつい、キャラが立った人だったようです。父は、京都賀茂神社のトップ。父の死後、長明は不遇の人生を歩み、自殺を考えるほどでした。
やがて和歌で認められ、中年になって天皇の目に留まり任官できました。それはそれは真面目に務めたようですが、自らに関する天皇のある処遇が許せず失踪。こだわりが強い激情型です。
政治の中枢のはるか外ながら、浮き沈み激しい人生であったから、晩年に至って世を捨てた。諸行無常と、全ては我の心次第という随筆を綴ったのでしょうか。そしてもう、人を傷つけ、傷つけられることが耐え難かった。
そんな人生を文章の背景に置くと、「方丈記」の味わいも増すような気がします。
すべて常なるものは無いから、無常。わたしは仏教徒ではありませんが、諸行無常がしんしんと心に沁みるのは、日本人だからか、それとも、そろそろ終いが見え始めたじいさんだからなのでしょうか。