壮絶な記録文学です。北アルプスの黒部峡谷は、峻厳な地形や豪雪が人の侵入を拒み続けてきた秘境。その峡谷に水力発電のダムを建設するため、人や資材を運ぶ隧道(トンネル)の掘削が始まりました。
ところが地下火山の影響で、掘り進むと岩盤温度は160度を超え、熱湯が絶えず吹き出してトンネル内は灼熱地獄になります。 「高熱隧道」(吉村昭、新潮文庫)は丹念に工事記録を調べ、現場責任者である技師の視点から、自然と人間の闘いを描き出した作品です。
あまりの高温に、発破のダイナマイトが自然発火して、人夫たちは逃げる間もありません。坑道の最深部、バラバラになった肉塊を抱き上げてトロッコ3台に積み、外に出してムシロに並べ、人の形に組み合わせようとするシーンは前半のハイライトでしょう。
吐き気が込み上げてくるシーンでありながら、肉塊を抱えて黙々とムシロを行き来する記述に、不思議な感動を覚えました。その感情はどこか心の深いところから浮かび上がってきたのですが、うまく表現できません。
全編を通し、作家自身の主観に深入りせず、冷静に淡々と事実を積み重ねる筆致が生きています。
舞台になった黒部川第三発電所は、昭和11(1936)年8月に着工し、同15年11月に完成するまで、死者は300人以上に上りました。難工事どころか、今なら間違いなく中断、工事断念でしょう。
しかし当時は中国大陸での戦争が長引き、一方で太平洋戦争が迫っていました。軍需産業を支える電源開発は、人命に優先される国策だったのです。こうした時代背景は、物語の各所で触れてあります。
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現代。
北アルプスはケーブルカーやロープウエー、地下トンネルのトロリーバス(電力線から電気供給を受けて走るバス)など、何度も乗り換えして富山県側から長野県大町へ「高熱隧道」を通って抜けることができます。
途中にある「黒四・クロヨン」、黒部川第四発電所の巨大ダム湖は日本屈指の山岳観光資源。ただしこのルート、冬季間は長く閉鎖されます。
観光ルートから外れた山行は、登山道が整備されていても上級者のみが辿れるルートです。そもそもこの登山道、ダム建設の調査と資材運搬のために整備されたのですが、開通は10月から11月までの2カ月弱。豪雪と雪崩で毎年寸断され、復旧に秋までかかるからです。開通したらすぐに、また豪雪の冬。
しかも16キロ以上にわたり、あちこち断崖絶壁の岩を穿った「道」で、狭いところは幅員60センチほどしかありません。「黒部峡谷に怪我人はない」という言葉があります。つまり、落ちたら死ぬ。代わりに、絶景に出会えます。
名古屋山岳同志会さんのサイト(https://sangaku-doushikai.com/)から、写真(byひらちゃん)をお借りします。
この登山道、何度も小説に登場します。100キロを超える資材を背負って、多くのボッカが歩くのですが、注意を怠って突き出た岩肌に背中の荷物が当たると転落。黒部に怪我人はなく、何人も命を落としました。
わたしは高所恐怖症なので、とても行けません。
ところで「黒部の太陽」という三船敏郎、石原裕次郎主演の映画があります。「高熱隧道」は黒部川第三発電所の小説ですが、「黒部の太陽」はさらに上流に、戦後建設された黒四の物語です。
黒四の工事では、171人が犠牲になりました。戦後の高度経済成長がそこから始まり、峡谷のダムが電力需要を支えました。