6月中旬にして今日は真夏日の予報。朝から冷房の効いた喫茶店に逃避し、モーニングセットを食べ、いまノートPCを開いてこれを書き始めました。
このところ、読了した本はそれなりにあっても、ブログに書くのが億劫になっています。理由は単純で、油彩で風景の大作に着手して、時間とエネルギーをそっちに持っていかれるから。でも、たまには何か書いておかないと...ということで。
「箱男」(安部公房、新潮文庫)は、斬新で難解な安部作品の中でも、ひときわ手の込んだ迷宮のような小説です。読み進むほど<?>が積み重なり、登場人物の行動や思考、言葉に違和感を覚えながら、しかし読むのをやめられませんでした。
箱男は、名称通り大きな段ボール箱をすっぽり被り、くりぬいた窓から外を見て生きています。かつては普通の社会生活を送っていたけれど、段ボール箱に籠ることで家も仕事も捨て、その姿で街中をうろついて生きる、匿名性の中に引きこもった浮浪者なのです。
この小説は、箱男がノートに綴る独白という設定で始まるのですが、その設定自体がすぐに揺らぎます。ノートに解説を加える第三の視点があり、さらに箱男に対峙する偽箱男が出てきて、実はどちらがこのノートを書いているのか、それとも別のだれかなのか?。最後まで明らかになることはなく、筋の通る解釈を探して、わたしの脳内はぐちゃぐちゃです。
求められ、裸になる看護婦が重要な役割を担って出てきます。箱男が匿名性に籠って世界を<見る>存在であるのに対し、看護師は全裸を晒して<見られる>ことで、自らの存在を確かめています。
だからと言って、この<見る><見られる>という関係性から、「人間とは、社会とは...」的な蘊蓄を、傾けようとは思いません。その類の、<匿名性とは>や<社会を離脱した自由の行方>など、批評家めいた論理を展開したくなる誘惑はいろいろ仕掛けられていて、読み手を誘うのですが、どれも小説の本筋から微妙にずれていく気がします。
読み終えてわたしが思い浮かべたのは、数学の方程式。数字や記号を並べて完成させた特異な方程式が、この小説の構造に思えます。そして、いくら読み込んで考えても、決して解答に行き着けない(そもそも解答が存在しない)のが、この方程式の特徴です。
たぶん作家本人でさえ、方程式の構造解説はできても、解答は分からない。芸術は本来そんなもんなんだよーと、言ってしまえばそれまでなんですけど。
あるいは方程式でなければ、爆弾か。平和で通俗的な世の中に、作家が仕掛けたテロのようにも思えます。演劇的な場面転換と、具体的事象を描写する文章に切れがあって、荒唐無稽な物語は不思議な存在感を獲得しています。
歯ごたえのある小説を読みたい方にお勧めします。ただし、いくら噛んでも、飲み込むのは容易でないけれど。
今年は安部公房の生誕百年。「箱男」は映画化が進んでいて、今年中には公開されるようです。でもなあ...この小説、どんなふうに映画化するのだろう。監督の勇気に感心しつつ、期待と、同じ分量の不安を覚えます。わたしの期待をぶっちぎり、不安を吹き飛ばす秀作になりますように。