気づいたら、泣いていましたーと、文庫本の帯にあったけれど、なるほど泣くかどうかは別にして、いい短編集だと思いました。「月まで三キロ」(伊与原新、新潮文庫)です。
表題作を含め7篇が収めてあり、どれも冷たい渓流の流れを掬って飲むよう。飲んで初めて、自分は喉が渇いていたのだと気づく澄んだ味。
世の中、味付けと効能に工夫を凝らし、ときには奇抜で怪しげな飲料さえ溢れています。そんなドリンク類や酒に慣れてしまうと、喉が渇いているなどと思いもしない。ところが実は....と、はっと気づかせてくれました。
もちろんいま、飲料に例えて小説の世界について話しています。
新しい表現や世界観に挑むのが芸術の最先端だという考えを、否定する気は少しもありません。そんな立場から見るなら、この短編集に冒険はありません。
だれもが馴染んだ、意地悪に書けば手垢がついた、言葉と言葉遣いで語られています。ところが清々しい。言葉を選ぶ作家の手が清潔で、文章は短いセンテンスの連続。これが自然に流れるように続くので、まず文章を<読む>楽しさを味わえます。
多くのストーリーは、不幸な過去を胸にしまった人と人の出会い。これもよくあるパターンだけれど、そんな文章だから語りが嫌味にならない。伊与原さんの、作家としての資質ですね。
作家は、いかに書くかが腕の見せどころであると同時に、いかに書かないかが大切だと思います。この短編集の魅力は、むしろ書いてない部分にあるかもしれません。
「エイリアンの食堂」という1篇は、妻を病気で亡くし、食堂を営む男と小学生の娘の日常が描かれます。毎日、閉店間際に来店する風変わりな女性客。それぞれの不幸が明かされ、紆余曲折を経て、最後に3人で夜空を見上げます。
ありがちなのは、三つの不幸が一つにつながって、小さな幸せが生まれましたというハッピーエンド。あるいは、そこまで書かなくても、ハッピーを示唆したエンディングです。
「エイリアンの食堂」は、未来について何も書かないし、示唆もしません。おどけた3人の笑い声を響かせて、小説が終わります。確かなのは、女性が街を去るしかないことだけ。うまいなあ。
もしあなたが、宇宙のロマンや素粒子物理学に興味があれば、さらに楽しめる短編集でしょう。
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