ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

作り手たちのカオスな日常 〜「最後の秘境 東京藝大」二宮敦人

 おそらく10分に1回くらいは、にんまり頷いていました。30分に1回くらいは、笑い声をあげていたかもしれません。

 たまたま、知人と時間待ちをしていたとき。文庫本を開くわたしの不審な笑いを、知人に聞きとがめられました。

 「どうしたんだ?」

 いや、それがさあ..と、面白い部分の概略を話し、わたしは「ここ、ここ」とオチの数行を指し示しました。文庫本を受け取った知人。1、2分ほどページと睨めっこして、一言。

 「面白さが分からない」

 がくっ。でも、何に面白さを感じるかは人それぞれですからね。

 「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」(二宮敦人、新潮文庫)は、特にその傾向が強い1冊なのかも...と思ったのでした。人が本を選ぶように、本の方も人を選ぶ。

 そしてこの本に選ばれたことの幸不幸と、社会人としての幸不幸は、まったく連動しません。

   

 4年間にわたって東京芸大のさまざまな学生たちに話を聴き、彼らの奇想天外で、新鮮で、ときに意味不明な苦闘をまとめたルポです。読み始めるとやめられない止まらない<何とかえびせん>みたいになってしまい、つい外出中の時間待ちの間にも開いてしまった次第です。

 二宮さんは一橋大経済学部卒。秀才だけど、まあごく普通の感覚の持ち主。その目に映し出された学生たちの姿が、なんと面白おかしく、生き生きしていることか。読むほどに、巧まずして美術や音楽の本質へと素人を導いてくれる側面もあります。

 実は、わたしがこの本を選んだ背景には分かりやすい個人的体験があります。

 若かりし高校時代、美大に行くという選択肢が心の隅にくすぶっていました。ちょっと、絵が得意だった。当時、美大を目指すデザイナー志望の友人がいて、彼が雑談でこんな話をしたのです。

 「東京芸大ってさあ、去年の実技の1次試験はキャベツだったんだって」

 わたしは瞬時に、丸いキャベツの独特のフォルムと重み、葉の重なり、白い葉脈(あれが<葉脈>なのかは分かりませんがw)の広がりをモノクロの鉛筆デッサンとしてイメージしました。強調すべき陰影まで意識して。ところが、友人の言葉はさらに続いたのです。

 「でさあ、そのキャベツ、ラップでゆるく包まれているんだってさ」

 わたしの頭脳は数秒もがいたのち、諦めました。ラップの質感を、脳内の鉛筆で再現できないショック。イメージできないものを、たとえ目の前に対象物があったとしても、限られた時間内に描けるはずがない...。

 以来、東大や京大と聞いてさしたる感慨も浮かびませんが、東京芸大だけは今もってどこかオーラを帯びた名前なのです。わたしには絶対無理!。もっとも、この受験情報が嘘だったかまことだったかは、確かめることもせず不明のままです。

 

 東京芸大には美術学部と音楽学部があります。美大と音大が同居しているわけで、両部の学生生活の違いは鮮やかすぎるほど。なぜそうなるかは、読んで納得です。

 絵にしろ彫刻にしろ工芸にしろ、ものづくりの現場は激しく汚い。ときに危険でさえある。一方で演奏家は、舞台に立てば容姿も商品価値の一部。高価な楽器に、鮮やかなドレスが何着も必要で、普段から見られることを意識して自分を磨く。

 美術の教授の基本姿勢は「勝手にやれ」の放任。音楽の教授と学生は密接な師弟関係。水と油のような両学部なのに、お互いを尊重して助け合ったりもするところが学生らしい。芸術に囚われたものとしての、仲間意識が通うのかもしれません。

 卒業していい会社に就職したいーなんて学生は皆無。そんなことを口走れば、落伍者と見られるだけです。卒業後は行方不明者多発。そもそも、未来より今に必死。

 「僕、ものをつくっている時間が、好きなんです」

 

 ふう、もう一度自分も学生時代をやり直したいなあ、若いっていいなあ。そんな年寄りの感慨を噛みしめて、最後のページを閉じたのでした。

                 

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