目覚めると、夏のように影が濃い日差し。食パンと苦いコーヒーで朝食を済ませ、箪笥から仕舞ったばかりの半袖を取り出す。歩いて海へ。
10月半ば。風が肌を撫で、稲刈りの終わった田が広がる。既に初雪の知らせが届いていた北アルプスは今日、微かなシルエットのみ。春のような陽気に大気が霞み、山々の偉容は遠い。
...わたしが週2、3回のウオーキングを始めたのは5年前です。幾つかの基本コースが決まっていて、海岸を目指す往復12、3キロの長閑な道筋を選ぶことがあれば、街中のルートを行く日も。
ルーティン化した歩くという行為は、実はかなり暇です。
季節移ろう景色や触れてくる風の変化が楽しいことを否定はしません。でも、1時間から場合によっては3時間ほどかけて歩き続ける間中、目に映る光景だけで退屈しないなんてあり得ません。知らない土地ならいざ知らず。
必然的に、頭の中にはさまざまな、たいていは愚にもつかない想念があぶくのように生まれて流れていきます。ごく、ごく稀に、思わぬ仕事のアイディアが浮かんだときなど、具体的な形に構築しようと必死になり、気づけば3時間歩き終わっていたなんてことがあるのも面白い。
今日の「愚にもつかない想念」のきっかけは、この道路案内標識でした。
「あいの風プロムナード」はこの先左だよー、と教えてくれます。まっすぐ行けば日本海の目指す海岸線。
もちろん案内表示は横目に当初ルートに従って直進。すぐにヨットや小型船の係留施設が現れます。テトラポットで釣りをする人も。
ここから、海岸線に沿って歩くと隣は砂浜の海水浴場。
夏、砂浜は海水浴客で溢れます。近くにウラジオストックや中東貿易の拠点港があって、貿易に携わって家族で居住している外国の人たちがたくさんいます。この海水浴場も、とんでもなく大胆な水着の白人女性たちがあちこちで海に入ったり、肌を焼いたりしていて、「これはニッポンの田舎の光景か」と目を疑いたくなるほどです。
しかし秋ともなれば、寄せる波の音が聞こえるだけ。
奈良時代の天平18(西暦746)年、越(こし)の国=現在の富山県=の国守として赴任し5年間を過ごした大伴家持は、公邸近くの海をこう詠みました。
かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを (万葉集巻17・三九五九)
以来、「荒磯(ありそ)」は「有磯海(ありそうみ)」と転化して越中を代表する歌枕になりました。時代が下った江戸時代、芭蕉は「奥の細道」の旅でこの地にこんな句を残します。
早稲の香や分け入る右は有磯海
早稲稔る目の前の情景から、読み手を千年前の家持の世界に誘おうとした芭蕉の17文字です。
さて、家持は「万葉集」の歌に雪を頂く北アルプスや、越の国の方言を数多く詠み込みました。おかげで現代の古語辞典には、大昔の越中の方言が幾つも収録されています。代表的な例が、東から吹く<あゆの風>または<あいの風>です。
東の風(あゆの風)いたく吹くらし....(同巻17・四〇一七)
当時の奈良、その後は京の都で東風は<こち>でした。
東風(こち)吹かば匂いをこせよ梅の花....(菅原道真)が有名ですね。
どちらも、まだ寒さ厳しい早春に吹く暖かい東風を指します。わたしの亡き父が、仕事に出る前など、よくこう言っていたことを思い出します。
「今日はあいの風や」
レンガ職人で外仕事が多かったから、今思えば寒さ和らぐ風が何よりありがたかったのでしょう。
奈良時代の言葉が今も現役なのだから、家持が万葉時代に歌に取り込んだ種々の方言は、逆に古墳時代や弥生時代まで遡ったころから使われていた言葉だったとしても不思議はありません。
「ああ、あいの風や」と、遠いわたしのご先祖さまが土器を作りながらつぶやいていたのかも。
ウオーキングで目にした「あいの風プロムナード」の案内標識から、ふと空想が飛びました。いま市街地と海を結ぶ路面電車の名称は「万葉線」。そこを「ドラえもん電車」が走っていたりします。また数年前に休校になった「有磯高校」というのもありました。
さて、本日は海岸で少々のんびりしたので、家に戻ったら正午近くでした。18,000歩。昼は手早くいためた炒飯で。
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(以下は蛇足です)
大伴家持の名が「万葉集」の編者、または奈良時代を代表する歌人として定着していると知れば、あの世の本人は複雑な表情を浮かべるでしょう。彼はまず名門を継ぐ政治家であり官僚でした。
ところが晩年、事件に巻き込まれて政争に敗れ、没後は朝廷から除名さえされたのでした。
「『万葉集』の諸巻は、その事件の家宅捜索のときにかれの旧邸で発見されて、朝廷あるいは官司の有に帰したものらしい」(中央公論社「日本の歴史」第4巻)
こうして初めて「万葉集」は世に出て後世に残ったというわけです。もっとも「万葉集」の成立には諸説あって、これはその一つですが。