あの葉がすべて落ちたとき、わたしの命も消える...は、よく知られたO・ヘンリーの名篇「最後の一葉」です。うちは11月末、庭のソメイヨシノに残っていた最後の一葉が散りました。月がかわり、トイレに掛けてある小ぶりなカレンダーは、最後の一枚を残すのみ。次はどんな絵柄にするか、そろそろ来年のカレンダーが気になり始めます。
日々、未来へ突き進むIT社会。わたしはスケジュール管理に、20年前からyahooのカレンダー機能を利用していて、PCやスマホから書き込み、参照しています。今日が何月何日かも、どこにいようとスマホさえあればすぐに分かる。しかし
月めくりの紙のカレンダーに向かい合うと、ほっとするのです。
我が家にある月めくりのカレンダーは二つ。リビングに掛けてあるのは大きめで、日付の下に書き込み用の空白がたっぷりあるタイプ。主にかみさんが使い、サインペンでさまざまな書き込みが増えていきます。
もう一つはトイレの中。この10年以上、上半分の絵柄は季節に合った昔の絵や版画が定番になっています。トイレで腰掛けると、目の前にある壁に掛けてあり、そしてなんとなく、癒されていると気づきます。
サーバー上にある個人的なカレンダー・スケジュール管理は、私がキーボードやタッチキーで書き込み、また操作して参照する能動的な行為の集積です。ところがトイレのカレンダーは、向こうから勝手に目に入ってきて、わたしの目は受動的に映し出すだけ。
何しろトイレの中だから、面倒なことはできないし、したくもないとき、物静かに掛かっているのです。あるのは数字。月と、7で改行される、2月以外は30または31までの数列。週の冒頭の数字は赤い。
明日の予定や1週間後の約束は記されていないけれど、1日、ひと月、あるいは1年という時の長さと短さが、ふと心に滲み込んできたりして。大袈裟に言えば、目先の予定より、人として死ぬまでの歳月のスケジュールを考えなさいよ...みたいな。
まあ、こんな私的な些事はさておき、今のところ人間にとって、時間把握に関しては圧倒的にアナログ表示が優位なようです。ホームセンターの時計コーナーに行ってみれば、内部構造がどれだけ最先端であろうと、2本の針、秒針も含めるなら3本の針の時計がたくさん並んでいるのだから。
健康診断で採血された後、「一分間押さえていてください」と言われ、看護師さんがひっくり返した砂時計に妙に見入ってしまったり。
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拙宅のトイレ内の写真など載せて失礼しました。
このところブログ更新が滞っていたのは、仕事に追われたのと、お絵描きに時間を取られたから。それでも源氏物語は牛歩のスピードで進み、北方謙三さんの新刊「不羅(ふき)」(集英社)や俳句の入門書なども読んだのですが、レビューを書く元気が残っていませんでした。
あ、それに「更級日記」(菅原孝標の女=むすめ=)を新潮日本古典集成で読み始めました。今は前半で、彼女はまだ京に帰り着いていない。菅原孝標の女にとっては一世代くらい先輩になるのが紫式部です。その先輩が記した「源氏物語」について、日記の中に出てくるので、原文を読みたいとページを開いたのが最初でした。
恐ろしいことに?源氏を読んでいると、短い「更級日記」など読了はちょろいものに思えてしまうww。もちろん腰を据えて読み込めば短いなりに<ちょろい>はずはないので、素人の錯覚ですが。
そしていずれにしろ、目先のあれこれよりもっと大きな時間の中に自分を置いてみよう。
...と、トイレで孤独に空想している最近なのでした。