ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

国を支える「母」への道のり 〜「月と日の后」冲方丁

 この世をばわが世とぞ思う望月の....と詠んで、権力をほしいままにした藤原道長。その娘・彰子(しょうし)の生涯を追い、怨念や陰謀渦巻く平安貴族の権力争いを描き出します。「月と日の后」(冲方丁=うぶかた・とう=、PHP)の斬新さは、どろどろした政争を女性の視点でとらえたこと。

 12歳で生家から引き剥がされ、一条天皇のもとに入内(じゅだい)した彰子は、右も左も分からない女の子。天皇が訪ねてきても、ただ身を固くして微動だにできません。

 父である道長にとって、娘は権力を握るための大事な道具です。

 初潮はまだか。胸乳はまだ張らないのか。いつ子を産める体になるのか。

 父が歯ぎしりせんばかりに自分の成長を待っているのが分かった。

 これは彰子だけの、特別な境遇ではありません。娘が天皇の子をもうけ、やがてその子が天皇になれば、娘の里の氏長者は外戚として天皇を支え、強大な力を得ます。

 こうして有力貴族たちは娘を大切に磨き上げ、いかにして入内させるかに心血を注ぎました。

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 政策立案や実行に優れた者が出世して権力を得るという、現代の常識が通用しない世界です。どうしてそんなおかしなことになっているのか?ーという疑問は、この小説を読めばよく分かります。

 疫病が大流行した時、現代ならマスクだワクチンだと手を打ち、医学的な抑え込み策を講じます。当時も天然痘の定期的な大流行が多くの命を奪いましたが、朝廷を司る貴族たちにできたのは、ただ高僧を大動員して仏に祈らせることだけ。

 疫病に限らず、困難に対抗するために政治が実行できるのは、突き詰めるなら読経で退散を願うことだけでした。一方で自らの繁栄を誇示するためには荘厳な儀式を行い、そして寺院を建立しました。

 こんなシンプルな政策=<政治>の図式しかないのだから、権力に群がる男たちが、民衆に対する施策より、天皇を軸にした<政局>にばかり血道をあげたのは当然です。さまざまな怨念が生まれ、敵の怨みから身を守るためにまた仏に頼るという、なんとも救い難い争いが延々と、この作品に登場します。

 彰子の夫、一条天皇は幸いにも賢帝で、優しく彼女を見守ります。やがて自我に目覚めた彰子は、紫式部から漢学を学び、男たちよりよほど透徹した目で現実と未来を見通すまでになります。

 一人の女性の成長物語として、読ませどころは随所にあります。一条天皇が世を去り、息子が天皇に即位してからは、父・道長にも対抗し、彰子は「国の母」として朝廷を支えます。

 全編を貫くキートーンは一条天皇の笛の音。そこには彰子の悲しみ、喜びが託されているのですが、具体的には、最後までお読みください。

 惜しむらくは終盤、出来事が矢継ぎ早に詰め込まれ過ぎて、歴史好きの人でなければちょっと辛いかも...と思いました。初出が月刊「歴史街道」の連載なので、その読者には問題なかったかもしれないのですが。