昭和62(1987)年にベストセラーになった「ハラスのいた日々」(中野孝次、文藝春秋)を、30数年ぶりに再読しました。中野さんはドイツ文学者でエッセイスト、小説家で2004年没。
ハラスと名付けた柴犬と暮らした13年間を綴ったこの作品は、刊行翌年に新田次郎文学賞を受け、映画化もされました。
もともと中野さんは、犬なんてみんな同じようなものだーと思っていました。ところがあるきっかけで柴犬を飼うことになると、いつの間にか「その犬以外の犬ではだめだという、かけ替えのない犬になっているのだ」。
愛犬家の心について中野さんは、明治の文豪・二葉亭四迷の小説『平凡』に出てくるポチの一節を引き合いに出します。(以下の引用は『平凡』から。一部新かなに改めてあります)
やっぱり犬に違いないポチが、私にむかうと...犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?...(中略)渾然として一如となる
人以外の生き物でこうした一体感が生まれ、しかも死ぬまで決して裏切ることがないのは、犬か馬くらいではないでしょうか。むしろ人間というやつの方がしばしば裏切るしね。
犬は愛してくれる飼い主の表情や口調から、健気なほどこちらの意思や心の状態を読み取ろうとします。人間の方も、犬の表情や仕草から考えていることがかなり分かります。うれしいときは尻尾を振るという、何とも正直な条件反射もあります。
そのつながりに、決定的に欠けているのは<言葉>です。
中野さんは、言葉がないからこそ人と犬のつながりは深くなるのだと書きます。
例えば眼に生気がなく、ぐったりしているとき、飼い主はさんざん心配した挙句にこう叫びたくなります。
「頭が痛いとか、腹が痛いとか、何か言ってくれよ!」
しかし犬は、刺さってくるような<悲しい目>でこちらを見続けるだけです。言葉がないから、人は犬が陥った現状の具体を必死にさまざま思いやります。
人と人の関係性を司る<言葉>は高度で便利なツールですが、同時に言葉以前にある他者への何か大切な心の動きを奪い去っているのだと、犬に教えられるのです。
晩年近くに、山中でのハラス失踪事件が起きます。ハラスはようやく生還しますが、次に襲われるのは致命的な腹部腫瘍の悪化。そしてハラスなき中野さんの日々が、最後に語られます。
私はこの文章が、犬を失った飼主の感傷以外の何者でもないことを承知している。だが、それが最も愛した相手であったとき、その死に人と犬の差があろうかと開き直る気持ちも私にはある。人は愛した者のためにしか悼むことはできはしない
犬との交流をこれほど率直に書いた作品を、私は他に知りません。犬についての文学作品はもちろんたくさんあって、そういえば直近の直木賞が「少年と犬」(馳星周、文藝春秋)でした。
うちの庭では今、はらはらと桜の落葉が最後を迎えようとしています。