ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

ハノイからの絵葉書

 わたしがよく訪ねるpaperwalkerさんのブログ「何を読んでも何かを思いだす」に、こんな文章がありました。「うん、うん」と頷きながら読んだのは、感傷に流されることなく手紙・葉書という文化についてさらりと書いてあったからです。

ところで、旅行先から家族や友人に絵葉書を送るという文化はまだ残っているんだろうか?

いまだったらスマホで写真を撮ってメールで送れるので簡単だ。わざわざ出来合いの絵葉書を買って、切手を貼って、ポストに投函するなどという手間をかける必要はない。

しかし、そうやって出された葉書にはメールにない味わいがあると思うのは、私が古い人間だからだろうか?

以前にも書いたけれど、手紙というのは小さな《旅情》だと思う。そこには、ある距離を実際に移動してきたという「もの」としての存在感がある。手紙自体がひとつの旅なのだ。

paperwalker.hatenablog.com

 

 絵葉書、旅情、手紙自体がひとつの旅。読んでいてこうした言葉が、わたしの中にいろいろな記憶をよみがえらせてくれました。

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 20数年前、ベトナムのハノイから1通の絵葉書がエアメールでうちの郵便受けに届きました。葉書の裏面は、通勤ラッシュと思しき自転車やバイクの人々が大通りに溢れる光景を、おそらくビルの上から捉えた写真。発展の途上にある新興国の熱気が伝わってくるショットです。

 表には宛先と、ベトナムを訪れた若い感性の言葉が綴られています。差出人を、仮にSさんとしましょう。

 Sさんは美大を出てまだ間もない、京都に住む無名の画家でした。正確に言うなら、画家として立つことを目指している一人の貧しい若者でした。90年代中頃から後半にかけて普及し始めたネットを通じ、わたしとSさんはたまたま互いを知ることになりました。わたしはSさん作品を見て、その資質にほぼ条件反射しました。

 なぜ、Sさんがベトナムに突撃したのか、振り返ってみればよく知りません。ただ、当時のSさんの画家としての苦しみはそれなりにメールで知っていたので、日常からの大脱出だったのかもしれません。絵葉書を受け取ったわたしは、ハノイへ、その雑踏の中の画家(の卵)の心へ思いをはせただけです。

 もしこの絵葉書がメールやインスタの投稿だったら、20年以上の時を経て見ることがあるでしょうか。たとえデータは残っていても、葉書の黄ばみが伝えてくれる「時の旅情」はありません。黄ばむことによって、葉書は今も旅を続けています。

 つい、昔の絵葉書を探し出して、そんなことを思ったのでした。画家として立つことを目指していたSさんは画家になり、一昨年画集が出版されました。