「光秀の定理」(垣根涼介、角川文庫)を読みながら、ひさびさに小説というものを満喫しました。個性豊かな人物たちの造形と展開は見事で、しばしば味わい深い。わたしは垣根さんは初読でしたが、最後のページを閉じて思わず「これは、これは...」と、心の中で賛辞を贈っていました。面白い!。
京の辻にむしろを広げ、通行人相手の博打で銭を稼ぐ坊主・愚息。剣客として名を挙げようと京にのぼりながら、辻斬りまがいの強盗に落ちぶれた兵法者・新九郎。この二人に、没落して浪人同然になった明智光秀が絡み、足利義輝惨殺、信長の台頭と光秀の出世、そして秀吉の治世まで物語は進みます。
愚息と新九郎は架空の人物と思われます。個性的な二人を軸に対比させることで、光秀の人間像がよりすっきり浮かび上がります。各場面、細部の筆運びや事象の掘り下げが読ませるので飽きないし、彼らを通じて随所に出てくる歴史観や人間観はなかなか味があります。
おかしなもので、わたしの心に強く残ったのは「閑吟集」から引用された歌、しかし作品の展開と直接には関わりのないフレーズでした。
一期は夢よ ただ狂へ
三人称で描かれますが、しばしば現代人である作者の視点が解説します。描写に講釈が加わって面白みを増す、講談師による「語り」のような構造です。例えば
翌日、愚息が庫裏の上に『三合庵』という小さな表札を掲げた。
米三合が、一日の授業料という意味の庵号だった。(中略)
フロムは言う。
自由からの逃走。
生きる方向性を持たないものには、自由など、いたずらにその存在の無意味さを煽られるだけで、なんの価値もない。
作者自身がしばしば顔を出して読者に解説する歴史小説はほかにもあって、思い浮かぶのが大家・司馬遼太郎さんですね。だからと言って垣根さんの作風が司馬作品と似ているわけではありません。そこにあるのは、くっきりとした垣根ワールドです。
さて、光秀を描いて避けて通れないのは本能寺の変。どんな必然が光秀をあの行為に駆り立てたのか。その部分は、本能寺の変自体の取り上げ方も含めて作品でお楽しみください。
垣根さんは日本推理作家協会賞など3賞をトリプル受賞した「ワイルド・ソウル」を初め、「ヒートアイランド」などはタイトルだけ目にしていましたが未読で、歴史ものとは縁遠い作家のイメージがありました。
ところが「光秀の定理」を読んでびっくり。冲方丁さんのように、近未来もののSF作家だと思っていたら突然「天地明察」を発表した人もいるし、考えてみれば少しも不思議ではないのですが。本書の姉妹編「信長の原理」や、垣根さんの本道(?)である現代ものも読みたくなりました。