ことばを食する

私的な読書覚え書き。お薦めできると思った本を取り上げます

こんなにも多彩! 下っ端の食生活 〜「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己

 下級武士がけっこういろいろ食べて、昼から飲んで、「何だか楽しそうだなあ」と、うらやましくなったのが「幕末単身赴任 下級武士の食日記」(青木直己、ちくま文庫)です。わたしが持つ「下級武士=貧乏」「武士は食わねど.....」、あるいは「清貧」という固定観念を根底から揺らした1冊。下っ端だから仕事の責任も重くないし、ある意味理想的なサラリーマン生活かも。

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 そもそも「下級武士=貧乏」の図式が、いかにしてわたしの中に形成されたのか。下級武士の典型として、「清貧」のヒーローがテレビや映画、小説で繰り返し描かれてきました。食を堪能するなどストイックであるべき武士道に反するし、料亭で密談・豪遊するのは越後屋と偉い代官様と決まっていて。

 登場する下級武士は、紀州和歌山藩の酒井伴四郎。彼は「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が殺された3カ月後、江戸藩邸勤務を命じられて単身赴任します。現代に置き換えるなら、和歌山県の下っ端公務員が、辞令をもらって県の東京事務所勤務になったわけです。そして彼は詳細な江戸日記を残しました。

 ところがこの人、風雲急を告げる江戸に出たにもかかわず、日記に残したのは政情より食い物や娯楽のことばかり。いや、少しは政治の噂話なども書き残しているようですが、「わが藩と仲がよくないあいつが失脚したのはめでたい」程度の内容。それより、みんなで食べようと取り置きしていたアジの干物を、同じ長屋の叔父が先に食べてしまった嘆きの方が、遥かに凄まじいといった具合なのです。

 江戸に登る途中、わらび餅を食べ、柏餅を楽しみ、名物の土産を飛脚で和歌山の家族に送り。(当時の飛脚は、書状配達に加えて土産の宅急便もやってたのか!)

 江戸では、庶民の味覚である蕎麦、寿司、うなぎ、桜餅に.....etc。しかも昼から一合、二合とよく飲んでいること。おいおい公務員の仕事は、と心配すれば、現代のブラック企業と比べ「白か透明に近い」ような勤務実態。

 下級武士ですから食事のベースは確かに自炊だったようですが、お江戸に集まるさまざまな安い食材を買って、これもなかなか楽しそう。飯がうまく炊けたかどうかを日記に書くほど一喜一憂するか?、武士のおぬし!

 もちろん日本中の下級武士の生活が、彼を持って代表されるとは思いません。もっと貧乏な武士も多かっただろうし、かと思えば幕末に京や大坂で暗躍し、豪遊した農民上がりの武士たちもいたのですから。

 当たり前ですが、当時はコロッケも中濃ソースも、イタリアンや坦々麺もありません。しかし、田舎の下級武士だろうと農民だろうと、飢饉の年でない限りは工夫した多才な(豪華ではなくても)食の楽しみを、それぞれに持っていたのでしょう。

 唐突ですが、「フジヤマとゲイシャガール」。これが昔の外国人が持つ日本のイメージでした。狭い固定的なイメージで、全て理解していると錯覚する。わたしは江戸時代の普通の人びとの食生活に対して、自分が同じ過ちを犯していたのだと気付きました。

 いや食生活に限らず、日本の歴史のさまざまな点に関して、自分の認識は「フジヤマとゲイシャガール」的な浅はかなものばかりなのだろう、と思い至りました。

 心から反省と感謝の1冊です。