ことばを食する

くーの、極めて私的な読書覚え書き。誰かにお薦めできると思った本を取り上げます

地球の石っころ(掌編 その3)

 夜行列車というものをご存じでしょうか。ケンイチが子どものころ、自分が把握できる世界の縁より、さらに遠くへ行くためには夜行列車に乗りました。少なくとも一度は夜が明けなければ、別の世界へ行けなかったのです。思い返せばとても自然で、リアルな世界の在り方でした。

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 夜、ケンイチ一家が乗ったのは大阪に向かう夜行列車でした。とうちゃん、かあちゃん、妹とケンイチ。向かい合った4人がけのボックスを一家で占めると、とうちゃんは酒を飲み始め、かあちゃんとケンイチたちは冷凍ミカンを齧りました。大阪ではバンパク(万博)というものが開かれていて、何と「月の石」が展示されているというのです。

 その年は、とうちゃんの職人仕事が順調にあったに違いありません。普通なら貧乏一家の大阪行きなど、想像もできない事態です。さて、違う世界に行くためには眠らなければなりません。興奮して目が冴えたケンイチを尻目に、とうちゃんは列車の床に新聞紙を敷き、通路に下半身を投げ出して口まで開けて寝ています。向かいの座席では、かあちゃんは背もたれに、妹はかあちゃんの膝に小さな頭を乗せて熟睡です。

 ガタン、ゴトン。レールの継ぎ目を走る終わりのない音が、いつの間にかケンイチの夢の中に溶け込んでいきました。

 真っ青に晴れた夏の日でした。ケンイチを何よりびっくりさせたのは人の数です。バンパク会場は人類の89パーセントくらいが結集したかのようです。目当ての「月の石」を見るために、3時間半の人の列。ケンイチはただただ、知らない世界に翻弄されていました。

 ぐったりして、ようやく目の前に現れた「月の石」。その時ケンイチの心に、短い人生で初めての感情が襲ってきました。ガラスケースの中にある、大きな月の「石ころ」。感動と、がっかりが打ち消しあって、心を占めたのは宇宙空間のような空白でした。

 それから。ケンイチと手を繋いだ妹は、嬉しさでもう一方のかわいい腕をぐるぐる回しながら歩いていました。何しろぎっしり人が詰まったバンパク会場ですから、かなり迷惑な行為だったに違いありません。実際、心配は現実になりました。

 ぐるぐる回る妹の手が、すれ違った若い女の人のスカートの中に入って、跳ね上げてしまったのです。あっ、と思ったケンイチの目に、女の人の真っ白なパンツな飛び込んできました。

 結局、バンパクという異世界からケンイチが持ち帰ったのは、数日間も残るだるさ(大人の言葉で言えば、疲労)と、月の石っころについての複雑すぎる思い、そして白いパンツの記憶でした。

 

 退職を機に、ケンイチは一つだけ贅沢をしました。2人乗りのスポーツカーを買ったのです。子供も独立して、もうファミリーカーが不可欠ではなくなりました。その車で、晴れた日は海岸にドライブするのが楽しみです。

 30分も走ると、お気に入りの海岸があります。砂浜ではなく、岩場でもなく、小石が海岸線を埋めています。ごく稀に、小石の中にヒスイの原石があって、ヒスイ探しにやってくる人もいるようです。

 その日もケンイチは丸い小石を拾ってみましたが、どう見てもただの石っころでした。何度来てもヒスイなど見つけたことがありません。石っころは長い時間をかけて姫川という川の流れに洗われ、海に出てからは波に洗われて、優美に角が取れています。

 ふと、ケンイチは気づきました。あの「月の石」がごつごつしていたことに。月には水が流れる川も海もありません。いま海岸に広がるのは、宇宙の中の、青い水の星である地球にしかない石っころです。

 夜行列車が遠い昔になってからの、ささやかな世界の再認識でした。握りしめると、石っころはしっかり掌を押し返してきました。