ことばを食する

本たちとの、出会い、すれ違い、言葉との恋愛。つれづれなるまま記していきます

「ふつう」と「あちら」の鳥獣戯画 〜「コンビニ人間」村田沙耶香

 コンビニという生き生きとして、無色で、いつの間にか社会に溶け込んだ現代的な空間。そのコンビニを支える有能な1部品としてのみ、社会と正常に関わることができる36歳、未婚で処女の恵子。「コンビニ人間」(村田沙耶香、文藝春秋)を読んで、実は困ってしまいました。う〜ん。

 ユニークで面白い。しかし、この作品は何なのかと問い、書こうとすると、ちょっと手探りしただけでは都合のいい言葉が見つかりません。そこが作品の魅力と言えば、そうではあるのですが。

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 世界を構成する大多数で普通の人びとと、異物として排除される「あちら側」であるマイノリティ。単純にそんな対立構造でとらえるだけなら、わかりやすい。マイノリティの視点から世界の残酷さや、世界に欠けているものを暗示し、マイノリティは滅んでいく。滅ぶことで暗示が力を得る...。

 いえ、恵子は全然滅んだりしません。普通と異物の対峙。読んでいるうちに、そんな単純な構図を作品は超えてしまうのです。人としての自分の出発点は、生まれた日ではなく、コンビニで働き始めた日なんだと、爽やかに再認識して。

 作中に登場するマイノリティは恵子ともう一人、救いようのない男。同じ「あちら側」でも、恵子と男は全く別の種族で、実は恵子と「普通の人びと種族」の方が近しいくらいです。あちら側の男の方は滅んでもらって構わないのですが、それを書いても作品がしまらなくなるだけなので、当然そこは無視してあります。

 この男と恵子の絡ませ方は、小説の構造として秀逸。二つの「異物」の出会いとさよならがあるから、作品は奥行きを獲得しています。

 「コンビニ人間」を読んで、わたしの中に現れたのは「鳥獣人物戯画」でした。京都の高山寺に伝わる、あの教科書にも出てきた絵巻物です。普通の人も、あちら側の人も、等しく人のかたちをしていない、生き物の可笑しさとにぎやかさに満ち、乾いた悲しみが漂う世界。

 そう考えると、一見してばかにしてしまった帯のキャッチが、なんとなく気になりました。

 「普通」とは何か? 現代の実存を軽やかに問う衝撃作

 なるほど。しかし「現代の実存」なんて、このキャッチ考えたのはどんな人なんだろう。サルトル、カミュを読んだ世代なんだろうか、それとも字面の雰囲気で「実存」なんて難しい言葉を選んだんだろうか、などと。ちょっと思わせぶりなキャッチかな。

 あっ、小説と関係ないところに脱線してしまった。すいません^^;