ケンイチが初めて文庫本に出合ったのは、中学校に入学した日でした。排気ガスをまき散らして車が行き来する国道8号線を挟み、向かいに住む「鷲本先生の奥さん」から、入学祝いにと岩波文庫の芥川龍之介をもらったのです。小学校を卒業したばかりの子どもにとって、パラフィン紙にカバーされた文庫本は、大人の世界そのものでした。
パラフィン紙の感触を確かめ、落ち着いた茶色の、小さな本のページをめくりながら、ケンイチは1ページごとに大人の世界に踏み込んでいくような手応えを、胸に刻んでいったのでした。
だからといって、ケンイチが一気に文学少年になったわけではありません。
中学には部活というものがあり、バレーボール部に入ったケンイチを待ち構えていたのはトレーニングと、球拾いと、何よりコートサイドで大声を出すことでした。目標は2年の秋にエースアタッカーになること。そして密かに好意を寄せている、ソフトボール部のノリコちゃんと親しくなること。
鷲本先生は、ケンイチが入学した中学の怖い生活指導の教師でした。向かいの家の新入生に本を贈ろうというのが、先生の発意だったのか、ケンイチのかあちゃんと親しい奥さんの心遣いだったのかは分かりません。新中学生に岩波文庫の芥川が適切かどうかもちょっと迷うところですが、子どもに対して早く大人になることを求めていた、そんな時代だったことは確かです。
その年、連続射殺犯の永山則夫が逮捕され、三島由起夫が東大全共闘と駒場キャンパス900番教室で公開討論を行ったりしましたが、ケンイチには全く関係ない出来事でした。世の中の動きでケンイチが影響を受けたものといえば、部活が終わって、夜のたんぼ道を帰りながら口ずさむヒット曲でした。森山良子の「禁じられた恋」とか、習ったばかりの英語で背伸びして声に出してみる洋楽とか。
黄色いバラ 1997
「お疲れ様でした」「お世話になりました」
後輩たちの言葉と拍手を背に、花束を抱えたケンイチは40年間務めた出版社の正面玄関から送り出され、待っていたハイヤーに乗り込みました。会社としては、退職者をハイヤーで自宅まで送り届けたところで、セレモニー完了となります。
ふと思い立ち、自宅に向かう途中にある大型書店で、ケンイチは降りることにしました。少しくらい道草をしても、これから時間だけは有り余るほどあります。広い店内をぶらぶらし、ついでに行方の分からなくなっている本を1冊、買い直そうと思ったのです。運転手さんに頼んで、花束や記念品など持ちきれないほどの荷物だけ、家に届けてもらうことにしました。
店には、ケンイチがかかわってきた月刊誌も置いてあります。来月号になればもう、どのページにもケンイチの痕跡はありません。
それに、かつて1回だけデートしたノリコちゃんが、パートとしてその店で働いています(大昔の恋心について、ケンイチの奥さんにはいまも内緒です)。もう孫が2人いるノリコちゃんですが、どうせならつかまえて、聞くまでもないことを聞いてみようかと思いました。
「岩波文庫、芥川の短編集ってどのあたりに置いてある?」