4日かけて、昔習った日本史のおさらいをしていました。歴史に詳しい方には今さらと笑われそうですが、日本から中国の都・洛陽にまで使者が行き、後漢の光武帝からあの有名な金印「漢委奴国王」(漢の委わの奴なの国王)を授かったのは、西暦57年でした。これって、単に気まぐれな旅人が海を渡ったわけではなく、東アジアの政治地図の中で、後漢へ派遣された国としての使節団です。
(中国の史書における倭の記述だけならさらに時代を遡ります)
使節団が送られた西暦57年といえば、考古学的には立派な弥生時代。邪馬台国の卑弥呼は、その1世紀後です。さらにその後が古墳時代。もちろん、当時の日本は現在のような姿の統一国家ではなく、国名も倭(委=わ)が呼び名でした。
わたしの場合、弥生時代と言えば稲作を中心とした集落社会ばかり思い浮かびます。ところが、中国と朝鮮半島の勢力図が情報としてこの国・倭にも伝わり、政治バランスを考えて対応する外交努力があったということです。弥生時代に国際政治空間が生まれていたなんて、改めて考えてみると驚きませんか?。もちろん当時、朝鮮半島に核や日本製磨製石器の不買運動やデモはないと思いますが..。
「新版 古代天皇の誕生」(吉村武彦、角川ソフィア文庫)を手にとったのは、最近の日韓関係がきっかけでした。この際、日本と東アジアの歴史を出発点から勉強してみようかと。素人にも分かりやすく、面白く読める本で...という、つごうのいい願望も持ちながら。結果は、と言えば、面白かったのですが、かなり苦労もありましたw。
古代、日本と朝鮮半島はそれほど密接に結び付いていたのかと、勉強になりました。百済(くだら)と日本(当時は倭・ヤマト政権)は、4世紀から約300年にもわたって友好関係を築いていました。これ、かなり長い期間です。例えば、今から300年遡れば江戸時代中期だし。
だから、百済が新羅・唐の連合軍に攻められたとき、倭から大軍が海を渡って応援に行きました。危機を救うことで百済を支配下に置こうとした政治戦略。しかし天下分け目の大戦、白村江の戦いに敗れ、百済は滅亡して多くの王族や貴族が亡命してきました。ちなみに、桓武天皇の生母は百済王の末裔だそうです。
外交では607年に遣隋使・小野妹子の国書で、大国と平等な立場に立とうとした大胆な政治決断。内政なら、いや内政と言うより政治闘争ですが、645年6月12日、血のクーデター「大化の改新」など、歴史スペクタクルとして読めば楽しめます。スペクタクルといっても、フィクションではなく最新の歴史学によるリアルですから、面白さもひと味違います。そういえば、今年は令和元年ですが、年号の始まりは蘇我入鹿が殺された大化元年なんですね。
わたしは教科書の日本史が退屈でした。でも特定のテーマで精緻に語られる歴史からは、大きなドラマが浮かび上がってくると感じました。
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