ことばを食する

本たちとの、出会い、すれ違い、言葉との恋愛。つれづれなるまま記していきます

今、この瞬間に ふかく、深く 〜「あなたの愛人の名前は」島本理生

 旦那さん以外に抱かれたいと思ったことはないの? と訊かれた。

 どきりとする書き出しで「あなたの愛人の名前は」(島本理生、集英社)は、始まります。恋と呼べるなら、恋と失恋を描いた6編の連作集。6編のうち5編が1人称で書かれ、主人公であるそれぞれの「私」と異性との今を、きめ細かい手つきで描き上げていくのですが、さらりとして重くならないのは島本さんの感性の美点ですね。

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 女と男がいて、一人ひとり違う風景と他の人に囲まれ、否応なく立ち止まることのない心の動きを生き、だから人の数だけ違う「いま」があります。「いま」がさまざまに交錯し、絡んだりほどけたりすることを、恋とか愛とか、失恋とか言ったりします。

 現代日本の小説ですから、「ロミオとジュリエット」のような分かりやすい純愛物とは縁もゆかりもありません。誠実な夫がありながら、怪しげな...ではなくて、妖しい「治療院」に通うセックスレス気味の真面目な妻。婚約中、別の男にナンパされて付き合い始め、抱かれると身体の相性が抜群で心に(身体だけではない)深く刺さり、こんな秘密のセックスを繰り返す女性。

 体が痙攣するたびに腰が離れそうになるので、浅野さんはいっそう深くしてきて、私はその肩に顔を埋めて、薄茶色い日焼けの沈着を網膜に焼き付けながら、どうしてこの瞬間に隕石衝突とか地球爆発が起きないのだろうと思った。

 作中の女性たち、作品によっては男を、「許せん!」と感じるのは、「ロミオとジュリエット」時代の古典的感性がどこかに残っているのでしょうね。しかし昔からの倫理観が強い人に対するほど、こうした作品が力を持つのも確かです。今を生きる一人としては、登場人物たちが隣人のような気さえします。

 事件や事故といった、日常を破壊する事態は一切起きません。ありふれた日常を、いや、ありふれてはいない日常かもしれませんが、的確に淡々と心理描写されるだけで、いつに間にかページをめくり続けました。小説を構成していく感性の微妙なひだのすくい上げ方、男の作家には難しいだろうな。

 6編中5編が1人称の作品と紹介しましたが、残る1編も実は1人称。ただし飼いネコの視点。ネコから見た人の営みが描かれます。このあたりは1冊の本として見渡したとき、心憎い仕上がりです。

 タイトル「あなたの愛人の名前は」の、「あなた」とはいったい誰でしうょう。夫でしょうか、妻でしょうか、それとも読者であるあなたか?。読む前に、正解を言い当てるのは極めて難しいと思います。そうきたか、というのが私の感想でした。