アメリカの研究機関で生み出された、新型インフルエンザウイルス「サリエル」。致死率が極めて高く、短時間で重篤な状態に陥ります。その研究データがハッカーによって流出し、ネット上に公開されてしまいます。「サリエルの命題」(楡周平、講談社)は、パニックの予感を孕みながら、今日的な重いテーマを次々に突きつけてきます。読後、私の中で尾を引く不安は、ウイルスやバイオテロに対してより、普通だと思って暮らす社会そのものの未来についてでした。
日本海の離島で、強毒性の新型インフルが発生し、医師を含めた全員が死亡。遺伝子解析でサリエルと確定されます。テレビや新聞が連日報道し、国や研究機関は感染の封じ込めと、パンデミック(爆発的な世界流行)阻止に躍起になります。しかしウイルスはさらに毒性を強めて変異し、本州でも感染者が...。
パニック寸前の状態が、社会に緊急の課題を突きつけます。効果が期待できる薬は1種類しかなく、全国民に対して備蓄はごくわずか。備蓄薬の使用にどんな優先順位をつけるのか。それは平等であるはずのいのちの重さに、優劣をつけるということです。
船が遭難したとき、女性と子どもから救難ボートに乗せる例えが作中に出てきますが、果たして単純なきれいごとが新型インフルの恐怖に通用するのか。作者の筆はさらに、事実上破綻しながら、だれも手を付ける勇気のない医療保険制度や医療の現状、少子高齢化問題にまで及びます。
このあたり、冷静に事実に立脚して展開するので、読んでいて無理がありません。迫る東京五輪という背景も盛り込み、効果が期待できる唯一の薬は、富山化学の「アビガン」がモデルと思われます。
楡さんはミステリーや犯罪小説からスタートした作家ですが、私はそちらの系統は未読です。「象の墓場」(光文社)など経済小説の読者です。「象の墓場」はアメリカの巨大フィルムメーカー・コダック社が、デジタルカメラの普及でフィルム需要が激減し、時代の変化に対応できず倒れていく姿を描きました。一方で、日本の1企業に過ぎなかった富士フィルムは業態の多様化に成功し、富士フィルムグループとして健在です。
ちなみに、楡さんはコダック社日本法人の元社員。作中に出てくる備蓄薬のモデルを開発した富山化学は現在、富士フィルムグループに組み込まれて創薬部門を担っています。
脱線しました。さて、新型インフルの爆発的感染は避けられないのか。作品でお楽しみください。かりに感染で滅びなくても、社会制度の疲弊で遠からず日本は内部から崩壊していくことを予言する1冊です。